レビ記 17:11 すべての生き物の命は血にあり、わたしはそれをあなたがたに与えて、祭壇の上であなたがたの命の贖いとするためである。血は命であり、それによって贖いがなされるからである。
「愛しています」という言葉と、「主の祈り」から始めましょう…
命の捧げ物。
今日、子供たちよ、わたしはわたしの教会とその霊的な内容の意義、その教えの大きな重要性、そしてすべての人々に対するわたしの愛の純粋さについて話したいと思っています。わたしの受難*について黙想してほしいのです。なぜなら、これこそがわたしの教会を形作ったからです。受難は歴史を通じて響き渡り、教会におけるわたしの御意志の重要な行為なのです。
なぜわたしの受難なのかと問うのですか? わたしの生涯と死におけるこの特定の行為は、わたしの教会の形成と永遠の命を意味しています。それはわたしの誕生から始まり、地上を歩みながら使徒たちを集め、多くの奇跡を通じて父なる神の恵みを現し、そして庭で一人残され、ユダに裏切られ、彼が兵士たちを連れてきてわたしをピラトのもとへ引き渡し、死刑を宣告させたに至るのです。
わたしの受難において耐え忍んだ苦しみは全人類のためのものであり、それは皆さん一人ひとりへの命の捧げ物でした。ですから、皆さんがわたしの受難について黙想するとき、他者の苦しみが和らぎ、魂が破滅から救われるのです。
私たちは共にこれを行うことができます。強調しておきたいのは、わたしの真の教会は、ミサにおける主要な一連の流れとして、わたしの受難を黙想し、再現しているということです。そして、すべてのミサにおいてわたしの聖体的な命が復活し、わたしの体と血が父なる神に捧げられます。なぜなら、世界中のあらゆるミサにおいて、魂との引き換えに、皆さんのために捧げられるのは、このわたしの体と血だからです。わたしはいつも皆さんと共にいます。